走ることは彼女の人生そのもの、有森裕子さんの現在とは

バルセロナオリンピック、アトランタオリンピックとそれぞれで銀メダル、銅メダルを獲得している有森裕子さん。
彼女は何故、マラソンの道に進んだのか。
今でも話題になる彼女の名言と現在の活動に注目してみました。

走るのが好き、有森裕子さんのマラソン人生とは


有森裕子さんは岡山市出身です。

生まれたのは1966年12月17日になります。
だけど、とても50代と見えない若々しさです。

岡山市立牧石小学校、岡山市立岡北中学校、就実高等学校、日本体育大学へと進みました。
陸上を始めたのは高校の時です。
その後、陸上部顧問の推薦を得て日本体育大学に進学した彼女、1年の時に関東学生陸上競技対校選手権大会の3000mで2位になりました。
さらには全国都道府県対抗女子駅伝に、4度目の正直で正選手として出走できました。

案外、駅伝選手からマラソンへの転向はそんなに珍しいことではありません。

元々、彼女は大学卒業後、教師になるつもりでした。
しかし、教育実習中に参加した記録会で自己ベストの中でも二番目くらいの好タイムを出した彼女。
卒業後の進路を教師から実業団へ変更。

そこがリクルート社です。

選手として無名だった彼女は半ば、おしかけのような形でマネージャー兼選手という形で陸上部への入部を果たしました。

1990年に初めて、マラソン競技に参加。
大阪国際女子マラソンで4位に入賞。
この時、初マラソン日本女子最高記録をあげ、次の年も大阪国際女子マラソンに参加しました。
優勝はできなかったものの、日本女子トップだった彼女。

ここからマラソンランナーの道を歩んでいくことになります。

有森裕子さんが引退した時期

オリンピックのメダリストとはいえ、彼女ももう50代。
すでにマラソンランナーとして引退しています。

引退を宣言したのは2006年5月になります。
翌年の東京マラソン2007を契機に引退することを宣言したわけです。
参加して、22km過ぎで転倒したものの2時間52分45秒で5位と完走しました。

ちなみにこの時、優勝したのは豊田自動織機の新谷仁美選手で2時間31分1秒でした。

引退後の有森裕子さんの活動

元々、2001年に休養宣言を挙げていた彼女。
ハート・オブ・ゴールドや国連人口基金親善大使などいろいろと活動を始めていました。
ちなみには2015年に出身地の岡山市にて「第1回おかやまマラソン」が開催されました。

NPO法人の設立や、アスリートのマネジメント会社「RIGHTS.」の設立、また、スペシャルオリンピックス日本の理事長を務めるなど、勢力的に活動しています。

元々、「マラソンが好きだから走り続けてきたわけでない」と語っている有森裕子さん。
マラソンを続けてきたのは止める理由がなかったからだそうです。
そして、マラソンは生きるための仕事だったとも言っています。

プロとしての誇りがあったからこそ、結果を出せたそうです。
マラソンを通じて自分と向き合うことが出来たそうです。

彼女はマラソンを通じて新しい活動を続けています。
なので、彼女からマラソンの魅力を語られると、ぐいぐいと引き込まれそうな気分になります。

有森裕子さんのこぼれ話

有森裕子さんと言えば、バルセロナ五輪で銀メダル、続くアトランタ五輪で銅メダルを獲得し、そのときのインタビューで語った
「初めて自分で自分をほめたいと思います。」
というコメントがあまりにも有名です。

思えばバルセロナ五輪の代表選手選考過程で松野明美さんとの比較において国を挙げての大騒動の末、見事代表に選出され銀メダルを獲得したのですね。
その心中、穏やかならざるものがあったことは想像に難くありません。

にもかかわらず、次のアトランタ五輪でも銅メダルを獲得するなんて岡山県人としていくらでも褒めて褒めて褒めちぎりたいと思ったものです。

その有森裕子さんもちょっとだけ味噌を付けてしまったのはやはり私生活におけるあの出来事だったかもしれません。

そう、ガブリエル・ウィルソン氏との結婚・離婚です。

「ガブ君」との愛称まで付けられていた夫が
「I was gay」(私はゲイでした)
という衝撃的な発言をし、世間で話題となりました。

有森裕子さんも1998年の挙式から2011年7月までかなり辛抱強く彼の立ち直りを待っていたようですがついに精も根も尽き果てたのでしょうか、離婚という結論に至ったようです。

しかし、何事にも粘り強く取り組む有森さんのことです。
これからも走ることによって人を元気にする活動を続けていくのでしょう。