岡山の両雄、星野仙一対平松政次

2018年1月、闘将と言われた星野仙一さんが亡くなったことは本当にショックでした。
地元岡山出身の星野さんは現役時代から監督時代を通じ、一貫して「打倒巨人」を胸にまさに闘い続けた野球人でした。
その星野さんと同年代のもう一人の岡山の雄・平松政次さんをご存知でしょうか。
「ご存知でしょうか」などと言うと平松さんに対して誠に失礼な申しようとなってしまいます。
岡山県人にとってそれほど両雄は比しがたく、いずれもスーパースターなのであります。

スポンサードリンク





倉敷商業高校、星野仙一


まず学年で1年先輩になる星野仙一さんです。
1947年1月生まれ、岡山県児島郡福田町(現在は倉敷市)出身です。
高校進学に際して、当時岡山東商とともに県内の2強と目されていた倉敷工業高校へ進学することをほぼ決めていたらしいですが、倉敷商業高校の野球部監督から是非にと口説かれて倉商へ進学したとのことです。
当然、星野さんに期待されたことは「甲子園出場」でした。
星野さんがエースになって以来、常に上位を争う強豪校になっていましたが、1964年東中国大会決勝まで進んだものの米子南高校に敗れとうとう甲子園出場を果たすことができませんでした。
ちなみにのちにヤクルトスワローズのエースとなる松岡弘さんは倉商時代の1年後輩ですが、松岡さんの時代も夏の県大会決勝まで進みながら岡山東商に敗れ甲子園出場はなりませんでした。

星野さんはその後、明治大学に進み6大学野球で名を馳せます。
同期には法政3羽ガラスと言われた田淵幸一さん、山本浩二さん、富田勝さんらがいました。

そして1968年のドラフトで中日ドラゴンズから指名されプロ入りをしました。
その後は公私憚ることなく打倒巨人を標榜し、闘志を前面に出したピッチングでファンを沸かせました。
引退後は中日、阪神、楽天さらには日本代表監督などを務め日本人なら誰でも知っている野球人となりました。

スポンサードリンク




岡山東商業高校、平松政次


ご存知、カミソリシュートの平松さんです。
星野さんの1学年下ですが、ほとんど同時期の岡山県の高校野球界を支えていました。
平松さんは1947年9月生まれ、岡山県高梁市の出身です。
中学卒業後は岡山東商に進みエースとして活躍しました。
1964年には秋の中国大会決勝で米子東高に敗れましたが、中国大会2位の成績が評価され翌1965年の第37回選抜高等学校野球大会にて甲子園出場を果たしました。
その大会で39イニング連続無失点記録を樹立、決勝で藤田平擁する市立和歌山商業を降し見事全国優勝を成し遂げました。
ちなみに筆者はそのときの岡山での優勝パレードの際、向井監督から頭を撫でてもらいました。
今でも忘れられない思い出です。

平松さんは高校卒業後、日本石油で社会人野球の道に進みエースとして活躍しました。
その後大洋ホエールズに指名されプロ入りしました。
プロ入り後は武器であるカミソリシュートを駆使し、1983年には200勝を達成しました。
巨人キラーとして王貞治、長嶋茂雄らからバッタバッタと三振を取る姿はまさに居合切りを感じさせる気迫がありました。

激突!星野仙一対平松政次


この両雄が実は高校時代、岡山の大会で対戦していたのですね。
考えてみればほとんど同時期に岡山で活躍していたわけですから当然その機会はあったのです。
1964年、星野さん3年、平松さん2年の夏、岡山大会準決勝で両者は激突しました。
平松さんは先発は投手ではなくライトで4番でした。
星野さんは相手チームの4番に対して遠慮することなく内角に切れ味鋭いシュートを投げ込みました。
平松さんのバットはへし折られ内野ゴロの山を築くばかり、すっかり度肝を抜かれてしまいました。
途中から平松さんもマウンドに立ちましたが、倉商打線に打ち込まれ結果11-2で倉商が勝利したのでした。
この時はカミソリシュートが星野さんの武器だったのですね。

そんな両雄のうち星野仙一さんが2018年の1月に亡くなってしまいました。
高校時代からのライバルであり打倒巨人の盟友でもあった平松さんも突然の悲報にただただ驚くばかりだったと言います。
私たち岡山県民も郷土から出た不世出の闘将を想い、心からご冥福をお祈りしたいと思います。

合掌

スポンサードリンク